2023年公開、脚本・監督は山崎貴。ゴジラ生誕70周年を記念した作品で『シン・ゴジラ』から7年ぶりの作品となります。国内製作の実写版ゴジラ映画30作品目になります。
戦争直後の東京が舞台。太平洋戦争で焼け野原となった東京が復興の兆しを見せた矢先、ゴジラの出現で元の瓦礫の街と化してしまいます。
第96回米国アカデミー賞でアジア映画初の「視覚効果賞」を受賞しました。
作品情報
監督:山崎貴
脚本:山崎貴
VFX:山崎貴
製作:市川南
エグゼクティブ・プロデューサー:臼井央、阿部秀司
企画・プロデュース:山田兼司、岸田一晃
プロデューサー:阿部豪、守屋圭一郎
撮影:柴崎幸三
編集:宮島竜治
音楽:佐藤直紀、伊福部昭
配給:東宝
公開:2023年
上映時間:124分
製作国:日本
キャスト
敷島浩一:神木隆之介
大石典子:浜辺美波
水島四郎:山田裕貴
明子:永谷咲笑
堀田辰雄:田中美央
斎藤忠征:遠藤雄弥
板垣昭夫:飯田基祐
野田健治:吉岡秀隆
橘宗作:青木崇高
秋津清治:佐々木蔵之介
太田澄子:安藤サクラ
『ゴジラ -1.0』のあらすじ
終戦直前の昭和20年、敷島浩一は特攻兵として出撃しながらも任務を果たせず、機の故障と偽り大戸島の基地に帰還する。その夜、不意に現れたゴジラに対しても浩一は恐怖のため機銃が打てず、浩一と整備兵の橘を残して基地は全滅する。
負い目を感じながら浩一は復員するが、東京は瓦礫の山で両親も失っていた。絶望する浩一だったが、そこへ赤ん坊を連れた大石典子が転がり込んでくる。その赤ん坊は見ず知らずの他人から託されたという。そして浩一、典子、赤ん坊の明子の同居生活が始まる。
浩一は掃海艇・新生丸に乗り込み、戦時中の日本沿岸に敷設された機雷除去の仕事につく。
東京も少しずつ復興の兆しが見え、浩一たちの生活も安定してくる。しかしその矢先、浩一はアメリカ軍の艦船が未知の生物に襲撃されたという事件を耳にする。そして、その生物は東京に近づいているという。浩一は大戸島で目撃したゴジラを思い出す。
その生物を機雷によって阻止するよう指示を受けた浩一たちの新生丸であったが、浩一が目にしたゴジラは以前よりも巨大になっていた。防ぐ手立てもないまま東京に上陸したゴジラは、街を元の瓦礫の山に変えてしまう。
戦争が終わってまだ軍備を持たない日本は、わずかの艦艇をかき集め、元駆逐艦・雪風の艦長堀田辰雄の指揮の元、ゴジラ撃退の作戦が実行される。
特攻からの逃避や大戸島での出来事での悪夢に悩まされている浩一も過去と決別するために作戦に参加する。
『ゴジラ -1.0』の見どころ
VFXの迫力とゴジラの存在感
この作品は戦後間もない東京が舞台になっています。山崎貴監督はかつて、『ALWAYS 三丁目の夕日』で懐かしい昭和の風景を描いて高い評価を得ましたが、この作品でも戦争直後から復興途上の活気あふれる東京の風景を緻密な描写で見せてくれています。
ゴジラも70年前の一作目を意識したと思われる、恐ろしさを前面に出した顔つきなど、近頃ハリウッド製ゴジラを見慣れてきたものにとって、とても新鮮な印象を感じます。
また、東京の街並みを破壊するシーンでは、昭和・平成の着ぐるみとミニチュアでの撮影に比べ、圧倒的なリアリティと迫力でのCGに思わず見入ってしまいます。
戦後の日本を舞台にした独自のストーリー展開
この作品では、戦争直後の日本が舞台となっています。1954年の『ゴジラ』では、ゴジラが核実験によって蘇ったといういきさつはあるものの、あまり戦後感が出ていなかったように思います。
しかし本作では、戦争で何もかも失った日本の社会を敷島浩一という主人公を中心に人間ドラマとしても描かれており、絶望から再生への物語としても見応えのある作品になっています。
敷島浩一の心の葛藤
浩一は特攻兵として出撃するも、言い訳を作り大戸島に逃げ帰ってしまいます。それだけではなく大戸島に現れたゴジラに対しても、恐怖のために機銃が打てず、基地の整備兵たちを死なせてしまいます。
罪悪感と後ろめたさを抱えたまま東京に戻った浩一は、戦後も夢にうなされ、そのために同居している典子や明子との間にも一線を敷き心を開こうとしません。
そのように、ずっと過去を引きずったまま戦後を生きる敷島浩一が、どのようにして自分自身の戦争を終わらせるのかという、単なる怪獣映画ではない人間ドラマにもなっています。
ゴジラを倒す秘密兵器は?
1954年の『ゴジラ』では芹沢博士(平田昭彦)が発明した「オキシジェン・デストロイヤー」という秘密兵器によってゴジラは倒されます。1984年の平成『ゴジラ』では「スーパーX」という兵器が登場します。そのほか、「メーサー砲」「メカゴジラ」など、今までのゴジラ映画ではあまり現実的ではない兵器が登場してきました。
しかし、今回の『ゴジラ』ではそのような架空の兵器は登場しません。まだ自衛隊発足前の何もない時代、アメリカも手を貸してくれないという状況で、どのようにゴジラに戦いを挑むのかが本作の最大の見どころとなります。
一作目へのリスペクトとオマージュ
山崎貴監督は『ALWAYS 三丁目の夕日』でゴジラを登場させたり、西武園ゆうえんちの『ゴジラ・ザ・ライド」での映像監督など、ゴジラに縁があり、ゴジラ好きを公言しているだけあって、この作品でもゴジラへのリスペクトがうかがえ、色々なシーンでゴジラシリーズへのオマージュシーンが見られます。
映画冒頭の大戸島は1954年の『ゴジラ』で最初にゴジラが登場する島です。また、ゴジラが巨大化する原因として水爆実験の影響を挙げています。そのほかにも色々とあるのですが、ただ、一作目の『ゴジラ』を見ていないと、単にスルーしてしまうシーンになってしまいますね。個人的に楽しめたのは、ビルの屋上での実況中継です。
『ゴジラ -1.0』の考察
『ゴジラ-1.0』は戦後間もない復興途上の日本現れた「ゴジラ」の圧倒的な力に対して挑む日本人と、その中の一人である敷島浩一の戦争との決別の物語が描かれた作品になっています。この作品は1954年の第一作目『ゴジラ』の原点回帰的な作品でもあり、一作目へのオマージュも含め、第96回米国アカデミー賞で「視覚効果賞」を受賞したVFXの技術が光る作品になっています。(注・ネタバレが所々あります)
『-1.0』の意味
太平洋戦争で焼け野原になった日本は『ゼロ』からの復興を強いられます。しかし、そこへ現れたゴジラによって、復興どころか『マイナス』に突き落とされるという意味があります。
という説明は、公開前からわかっていたことなのですが、映画を見終わって感じたのは、果たしてそれだけなのだろうか?という疑問です。
というのは、ラストシーン…、ゴジラは海中に没していきます。しかしこの作品のゴジラはとても強力な再生能力を持っているようです。その様子がシーンから伺えます。
そして、浩一と典子の再開シーン。ベッドの上の典子の首筋に伸びでくる黒いアザのようなもの、一体なんなのでしょう。
東京はゴジラに踏みにじられ熱線で焼かれます。でも、それだけなら戦争直後の状態『ゼロ』と変わりはないのではないでしょうか。この作品はゴジラを倒し、戦争の悪夢から決別した浩一と典子が再会するというハッピーエンドの映画ではなく、その後に『マイナス』が待っているという、その後を暗示させるという意味の『-1.0』のような気がします。
対ゴジラ作戦の現実感
本作ではゴジラを迎え撃つ作戦として「海神(わだつみ)作戦」が決行されます。
これは浩一の新生丸での同僚、元海軍技術士官の野田健治の発案によるもので、ゴジラに巻きつけたボンベから噴き出す大量のフロンガスの気泡でゴジラを包むことで浮力を無くし、相模湾の1500mの海底に一気に引きずり込み、凄まじい水圧でゴジラの息の根を止めるというもの、もしそれが失敗した場合、ゴジラの体にボンベと同時に装着した浮き袋で、今度は一気に海面まで上昇させ、急激な減圧でゴジラを倒すという作戦なのです。
結果、失敗して浩一の震電の登場ということになるのですが、この作戦は従来のゴジラ映画から見ると、比較的現実的な作戦のように見られます。かつてのゴジラ兵器といえば、メーサー砲やスーパーX、メカゴジラ(機龍)、MOGERAなど、あまり現実的とはいえない兵器が登場していました。「シン・ゴジラ」では身長100m以上、尻尾も入れると300mを超えるゴジラを凍らせると作戦です。それを考えると、この作品の「海神作戦」はとても現実的な作戦です。
気泡で包むと浮力がなくなるという現象は、科学実験で有名な米村でんじろう先生が「でんじろう先生のハピエネ!(http://www.youtube.com/watch?v=fPiCAN_WAsk)」という公式YouTube番組で実験をされています。ただ、実験を見ると泡の密度が重要ということで、映画のようにはいかなさそうです。
この作品で「海神作戦」のような比較的現実感のある計画が考え出されたのは、戦争直後の何もない日本という設定の中、都合のいい新兵器を持ち出したくなかったという、監督のこだわりがあったのではないでしょうか。
おわりに ― 感想
久しぶりのゴジラ映画でしたが、満足できる作品だったと思います。国内作品の実写映画としては『シン・ゴジラ』からは7年ぶりということですが、『シン・ゴジラ』はちょっと異色な作品という印象があるので、2004年の『ゴジラ FINAL WARS』以来ということになるでしょうか。
このところ、アメリカ製のゴジラを見慣れてはきているものの、「第96回米国アカデミー賞視覚効果賞」を受賞するだけあって、ド迫力の映像を見せてくれていました。
また、「高雄」「雪風」などの旧海軍の艦艇を復活させるなど、オタク心をくすぐるような演出もとても興味深く感じましたが、「震電」の復活まで行くと、なんとなく山崎監督の趣味に付き合わされている感じがなんとなくしてきますね。庵野秀明監督の「シン」シリーズもそのような感じを受けた記憶があります。山崎監督と庵野監督って似たタイプなのかもしれませんね。

